2月17日生まれの有名人と今日は何の日?*365日きっかけ誕生日プレゼント*

2月17日 森鴎外 誕生日

2月17日生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます。

今日はどのように過ごしますか?

お誕生日の方、そうでない方も、ワクワクとした日を過ごしたいですよね?

そんなあなたに小さな小さなきっかけをプレゼントします。

 

シーボルトは日本に10年滞在し話せなかった!カタカナのみ!

2016年は没後150年、生誕220年を記念してシーボルト展が東京、長崎、大阪で開催されました。

ペリー率いる黒船が来航する以前に、交易をしていたオランダ、シーボルトが得た情報はペリーにとって日本を知るきっかけでした。オランダよりも先に開国を迫らなければならないという、警戒感も植え付けたとも考えられています。ペリーではなく、オランダのシーボルトによる交易や、医学からの開国もあり得たのかもしれません。

 

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトはどんな人?

1796年2月17日~1866年10月18日 職業:医師・博物学者
出身:ドイツ

江戸末期、長崎にて西洋医学の指導、医学者の育成に励んだ医師です。また、動植物のコレクション等を欧州に持ち帰り、日本の文化等を欧州に広めた植物学者でもあります。

 

シーボルト家は貴族出身(名前に「フォン」がつくのが目印)で、代々医者を輩出してきました。父ヨハンはフィリップが1歳のときに亡くなり、母方の叔父に育てられます。

最初は哲学を専攻していましたが、親類の意見に従い医者を目指し医学を学び始めます。植物に目覚めたのは、在学中に植物学者の教授の家に寄宿し、植物学に触れたことがきっかけでした。

シーボルトは優秀で外科、産科、内科の博士号と取得し、卒業後に医師の国家試験を受け開業します。しかし、町医者として安定した生活よりも、自然科学への関心が強く、旅に出たい願望があったようです。

日本と交易をしていたオランダで医師として活動できれば、東洋に行く機会も得られるのではないかと考え、周囲の協力を得て、オランダ領東インド陸軍病院の外科少佐になります。

 

1度目の来日 鳴滝塾(なるたきじゅく)

1823年 27歳 長崎の出島のオランダ商館の医師に任命され来日します。

ドイツ人であるシーボルトはオランダ語が話せたのか?当時の日本の通訳官よりも発音が不正確であったために、相当怪しまれたようですが、「オランダの山の方の出身なので訛りがある」と言って切り抜けたようです。

オランダは平地で山がないので、分かる人にはすぐ分かる嘘ですが、当時そんなことを知るよしもなかった日本人は、「そっか~訛りなんだぁ!」と解釈したようです。

来日してすぐに日本人女性、楠本滝と一緒になり、4年後の1827年には、長女イネが誕生します。

シーボルトは出島で開業し、鳴滝塾※という診察所を兼ねた私塾を長崎郊外に開校します。西洋医学を学びたいと全国から集まった医学を志した人は50人以上いたと言われています。※鳴滝は地名です。

治療するにあたり、患者からは金銭を受け取らなかったため、治療費の代わりの美術品や工芸品を置いていった人もいたようです。またオランダ政府から、日本の美術工芸品を収集する費用として、莫大なお金を事前にもらっていたので、医師兼バイヤーでした。

忙しい生活をしていましたが、睡眠時間を最低限に削り、出島に植物園を作り、1400種以上の植物を栽培し収集していました。

 

シーボルト事件

1828年、オランダに帰国する際に船が難破し、積荷が海中に流出、ご禁制の日本地図を持って帰ろうとしていたことが分かってしまい、スパイ容疑がかけられます。地図を返却するよう要請しますがそれを拒否したため、出国停止処分を受けた後、国外追放処分を下されます。これがシーボルト事件と呼ばれています。

地図と言ったら伊能忠敬を思い出しますが、日本全国を測量して地図が完成したのは1821年なので、日本にとっては大変貴重なものでしたが、シーボルトにとっては、資料の一部くらいの認識だったのかもしれません。

どういう経緯でシーボルトに渡ったのか?尋問にかけられますが、関係者に迷惑をかけてはいけないと口を噤みます。結局、地図などは没収され、1830年34歳のときにオランダに帰国します。

 

帰国後…「日本植物誌」の出版

日本で収集した自然植物標本およそ12000点と、集めた日本の工芸品などを持ち帰ります。集めた標本等で『日本植物誌』を出版します。そのなかで、シーボルトは自身が好きなあじさいの花に、日本人妻、滝の名前をとって、学名「オタクサ」とつけました。おそらく「タキ」→「オタキ」→「オタキサン」→「オタクサ」になったのかな…?

シーボルトはドイツの大学で、日本学の教授として招かれたため、ドイツに戻り、1845年 48歳のときにドイツ人女性と結婚し、5人(3男2女)の子どもに恵まれます。

 

2度目の来日

国外追放処分から29年後…

1853年 ペリー率いる黒船来航
1963年 大政奉還

1859年 63歳 オランダ貿易会社の顧問として再来日します。このとき、長男アレキサンダーを連れていました。

来日した目的は色々あったと思いますが、別れたとき、2歳であった娘のイネやシーボルト事件のあとの塾生たちの様子は知りたかったでしょうね。

3年後の1862年に帰国します。

集めたコレクションをオランダ政府に売却を持ちかけますが、お値段が高いことを理由に拒否されます。晩年はオランダでの官職を辞め、故郷に戻り、ドイツ政府にもコレクションの売却を提案しますが拒否され、個人で日本展を開催していました。日本が好き&子どもたちも日本にいたので、再再度の来日を計画していましたが、風邪をこじられ亡くなりました。

2度の来日で計10年間、日本で生活していましたが、日本語は話せず、カタカナが書けた程度だったようです。周りはそれこそ日本人だらけですが、共通語がオランダ語だったので、オランダ語は上達したかもしれません。日本人が6年勉強しても、英語が話せないのも納得しますよね?

 

シーボルトの子どもたちと子孫

妻、滝はシーボルトがオランダに帰ってすぐに再婚し、イネは塾生から医学を学び、日本人女性で初の産科医になっていました。シーボルトが再来日した際は、西洋医学を父親から学んだようです。

イネの美しい容貌は当時大変目立ち、差別を受けることも多かったようですが、異母弟であるシーボルト兄弟の支援により築地に開業し、福澤諭吉の口添えで、宮内庁の御用掛となり、皇族の出産に立ち会っています。

1875年 医術開業試験制度が始まりますが、女性は受験資格がなかったため、東京の病院を閉鎖し長崎に戻ります。

1884年 女性にも医術開業試験の受験資格が得られますが、高齢であることを理由に受験を諦め、産婆として開業します。62歳のときに長崎の産院を閉業し、以降は異母弟ハインリヒの世話になります。

イネには娘、タダ(高子に改名)がいました。高子もまた美しい容貌であったようです。『銀河鉄道999』の作者 松本零士氏は、高子の写真を見てメーテルのモデルとしたことでも知られています。

イネの異母弟、シーボルトの長男アレキサンダーは、在日本イギリス公使館の通訳官として着任、次男ハインリヒは、在日本オーストリーハンガリー帝国公使館代理公使兼通訳官として着任しました。

シーボルトの子孫は今もいらっしゃるのかなと思われます。

 

シーボルトに協力した川原慶賀(かわはら けいが)

1786年~1860年頃 職業:画家

長崎で絵師をしていた川原慶賀は、出島への出入りを許されていたため、出島で暮らしていたオランダ人の生活を描いていました。

そして浮世絵と西洋画を融合した独自の作風を生み出します。シーボルトから注文を受け、動植物の写生図がよく知られています。

絵を描くための画材等はオランダ政府から支給され、描いたものはシーボルトが、ヨーロッパに持ち帰りました。シーボルト事件のとき川原慶賀も取り調べを受けたようです。シーボルトが国外退去になったあと、後任者のハインリヒ・ビュルゲルの指示で、写生図を描き続けていたようです。

シーボルトの死後、川原慶賀や他の絵師による植物図譜のコレクションのうち、1000点はロシアに渡り、現在、ロシア科学アカデミーで保管されています。

 

Keiga Kawahara
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