12月14日生まれの有名人と今日は何の日?*365日きっかけ誕生日プレゼント*

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12月14日生まれの皆さま、お誕生日おめでとうございます。

今日はどのように過ごしますか?

お誕生日の方、そうでない方も、今日一日ワクワクとした日を過ごしたいですよね?

そんなあなたに小さな小さなきっかけをプレゼントします。

ノストラダムスは預言者?医者でジャムおじさんだった!

1973年に出版された『ノストラダムスの大予言』には、「1999年7月に人類が滅亡する」とあり、2000年を迎える前に何が起きるのか?心配していた人もいるかもしれませんが、何も起きませんでした。

毎年、ノストラダムスの予言はこのことか?という出来事が起きているので、どれにも当てはまるような気がします。

ミシェル・ノストラダムスはどんな人?

1503年12月14日~1566年7月2日
職業:医師・占星術師・詩人・料理研究家
出身:フランス

ノストラダムスの先祖は商人で、商いを営む家に生まれ、幼い頃から、医学、数学、天文学、ギリシャ語の手ほどきを祖父から受けたのではないかと伝えられています。

15歳前後で大学に入学します。在学中にコペルニクスの「天球回転について」の内容の先駆けになるような、地動説を語っていたらしいという話がありましたが、コペルニクスよりもプトレマイオス的な宇宙観だったのはないかと言われています。

大学在学中にペストが大流行し、その影響で授業が休校、国内の混乱が続き、各地を旅し薬草の採集や知識を深めていたのではないか?ノストラダムスが何をしていたのか正確なことは分かりません。

自身の経験をもとに、後半期には、少量の砂糖で作れるジャムの作り方などを著した『化粧品とジャム論』を残しています。ノストラダムスというと、「予言者」というイメージが強いですが、医師で、ジャムの作り方を著した料理研究家でもあったということです。

『化粧品とジャム論』もとに作られているのが下記の本です。

40代になり、翌年の一年間の運勢を占う暦書の刊行を始めます。これは今でいう、年間星座占いとかそういった類だと思います。これが好評で、一年よりももっと先の未来を予言したものを著し、ノストラダムスの予言書として読まれています。

予言者っぽいというエピソードのなかには、国王の相談役として、「4人の王子は将来全員が王様になる」と言ったことがあげられています。この予言が当たったかどうかは正確なところは分からないようです。

予言も占いもきっかけです!

予言者、占い師、占星術師呼びかたは何でもいいですが、この職業に共通しているのは、カウンセラーで人の話を聞き、相手が欲しそうな言葉を読み取り、伝える、コミュニケーション術が非常に長けており、それが人を惹きつける魅力なのかなと思うところです。

12月14日 ミシェル・ノストラダムス

きっかけ:

トーストにジャムをぬって食べてみましょう。

関連するページ:

NHKグレーテルのかまど「ノストラダムスのパート・ド・フリュイ

鼻を失った天文学者ブラーエ 弟子ケプラーに託された!?

ティコ・ブラーエはどんな人?

1546年12月14日1601年10月24日 職業:天文学者・占星術師
出身:デンマーク

貴族出身で、膨大な天体観測の記録を残し、後に弟子のヨハネス・ケプラーが、そのデータをもとに法則を唱えました。これがケプラーの法則です。

ブラーエは、数学の方程式について議論になり、それがもとで決闘をし、鼻を削ぎ落されてしまいました。義鼻を制作し、平日は銅の義鼻、日曜は金と銀の合金でできた義鼻を身に着けていたそうです。

日曜は教会に出席するので、身なりをちゃんとするという意味で、そういうこだわりがあったのかと思いますが、「そこ重要なんだ…」と思いますよね?肖像画ではその様子は分かりませんが、鼻がないため嗅覚はなかったようです。

また死因として考えられているのが、義鼻に使われていた金属が原因説、毒殺説などの疑惑です。助手のケプラーが研究に嫉妬とか、黒幕がいたとかなんとか、当時から噂がありました。

死後、100年経ってから調査された遺体に水銀が発見されたという情報があり、毒を盛られていても嗅覚がなかったので、気付かなかったのではないか?などの憶測が400年以上に渡って繰り広げられ、2000年に再度飛び交いました。

日本でも下記のような本が出版されていました。

2010年遺体が掘り起こされ、致死レベルの毒は検出されなかったようですが、遺体がティコ・ブラーエ本人だと絶対と言えるものなのか?謎が残ります。

シャヴァンヌの作品がゴーギャンやピカソを魅了した

ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌはどんな人?

1824年12月14日~1898年10月24日 職業:画家
出身:フランス

「シャヴァンヌ」は馴染みのない画家かもしれませんが、日本人画家がフランスに留学して、シャヴァンヌのアトリエを訪ねていたり、作品が早くから日本の雑誌で紹介されていたことから、近代日本の西洋画の影響はシャヴァンヌが強かったのではないか?と考えられています。

また、当時流行っていた画風と一線を画し、ギリシャやローマの神話世界を描いた古典主義は、ゴーギャン、マティス、スーラ、ピカソ、ロートレックたちに影響を与えました。ピカソはシャバンヌの模写をしていたという話もあります。


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画家モーリス・ユトリロの母、シュザンヌ・ヴァラドンは、シャヴァンヌの絵のモデルをしていたことがあります。ユトリロが誰の子か憶測が飛び交い、シャヴァンヌかルノワールのどちらかではないかと言われていましたが、個人主義のフランスでは、それを公にする必要が当時からなかったようです。

懐かしい!猪熊弦一郎の三越の包装紙デザイン

三越伊勢丹デパートの包装紙のデザインが変わって、しばらく経つので、以前のものを知らないという人もいるかもしれません。1950年以来50年以上使われていたのは、猪熊弦一郎がデザインした「華ひらく」というタイトルの包装紙でした。

海岸を散歩中に、波で洗われる石を見てアイデアが湧き「波に負けない強さ」をテーマに制作されました。赤い模様の切り抜きが白い紙に仮止めされた状態で持ち込まれ、受け取ったのは、当時三越宣伝部に勤めていたやなせたかしです。赤い模様のなかに、「mitsukoshi」と、やなせたかしが手書きでロゴを加えたものが、三越のシンボルとしてずっと使われていました。

猪熊弦一郎はどんな人?

1902年12月14日〜1993年5月17日 職業:画家
出身:日本(香川県)

幼少の頃から絵を描くことが好きで、画家になることを夢見て、一年浪人の末、現在の東京芸術大学の前身となる美術学校に入学します。

大学を中退し、画家になるのであればフランスに留学したい、一番好きな画家アンリ・マティスに教えを乞いたいと願った猪熊弦一郎は、事前に手紙を書き、約束を取り付けました。

描きためた作品を見てもらって講評してもらおうと考え、意気揚々とマティスに会いに行きます。開口一番に「お前の絵はうますぎる」の一言に、当時36歳だった猪熊弦一郎は困惑し、自分の画風が確立されていないのか?疑い、それまでのやり方を見直したり、画風の模索を続けます。マティスやピカソ、モディリアーニの呪縛から解き離れたいという一心で、自分が画風を確立させようとする日々が続きました。

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猪熊さんは猫が大好きで、猫のモチーフの作品が知られていますが、それ以外の作品は、道具も画風も異なりバラエティに富んでおり、生涯もがき続けた結晶の塊とも言えそうです。

猪熊さんがよく口にしていた言葉が下記です。

絵を描くには勇気がいる

旅先で取集した大好きなものを、いつも身近に置いて、暮らしや仕事の糧にしていたそうです。道で拾った何かのカケラも、区別なく大切なコレクションでした。

ミニマリストや断舎利といった言葉が近年、よく聞かれるようになり、不必要なモノを身近に置かないようにしている人も多いかもしれません。あることによって、作品が生まれるとしたら?創作する人にとってはすっきりした生活よりも、アイデアが湧く部屋の方がいい場合もありますね。

12月14日猪熊弦一郎

きっかけ:

旅先で出会った「モノ」コレクションをしてみましょう。

関連するページ:香川県 MIMOCA 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館

12月14日 今日は何の日?365日のきっかけ

南極の日

1911年12月14日に、ノルウェーの探検家ロアール・アムンセンと4人の隊員が人類で初めて南極点に到達したことに由来します。

討ち入りの日・忠臣蔵の・四十七士討ち入りの日

元禄15年12月14日(1703年1月30日)に、赤穂浪士(四十七士)が吉良上野介(吉良義央)邸討ち入り(赤穂事件)した日です。

この出来事に因み、赤穂市では赤穂義士祭、吉良邸跡である両国・本所松坂町公園と赤穂浪士の墓所泉岳寺において義士祭が行われます。本所松坂町公園では、名君であったとされる吉良をしのんで吉良祭も同時に行われています。

いかがでしたか?

Wikipedia情報による、12月14日が誕生日である有名人や何かの記念日をヒントにして、きっかけをつくりました。

素敵な偶然に出会ったり、予想外のものを発見することをセレンディピティ(serendipity)というそうです。サイトをご覧になった方が素敵な偶然に出会えるかは分かりかねますが、行動したら何かが起こるかもしれません。

素敵な一日でありますように!